ああの、今日も夢を叶えるの巻!

ああの、今日も夢を叶えるの巻!

ミュージカル、映画、夢物語、タイ、歴史が好きな永遠の18歳(総合商社勤務歴あり)。

【オピニオン】齢30過ぎにして気づいた、人を愛するということ

サワディーカップ

ああのです!

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フロムのこの本(愛するということ 新訳版)も有名だが、最近、愛するということについて考える機会があったので共有したい。

重たい記事か、というとそうでもないのでサクッと読みたい方は目次を読んでささっと見ていただきたい。

目次

東京に余裕と愛がなさすぎる

東京に住んでいて一番むしゃくしゃしてしょうがないのが、周りの人に対する愛(いわゆる隣人愛だな!)がなさすぎる。

自己愛が強いのは大いに結構だが、隣人大切にしようよ!

スパイダーマンも言ってる、「あなたの親愛なる隣人、スパイダーマン」と。

そう、隣人は親愛にして神聖なるもの。

すなわち、隣に住んでいる、隣にいるというそれだけで縁と思えないのだろうか。

古き良き日本の合言葉「一期一会」を忘れてしまったのだろうか。

いや、確実に忘れている。

日々の生活に追われて余裕がないことでさらにそれに拍車がかかっている感じ。

実は先週末に渡良瀬川付近に遊びに行ってきたが、そのあたりの電車はまず混まないし、車の量も東京都心や埼玉などと比べるとかなり空いている。なので電車の中で人にぶつかろうものなら「すみません」、横断歩道に車が乗っかり、歩けなくなった時には車がバックするなど余裕が違う。

そう、彼らには愛がある。

でも都心部の満員電車や道路を歩いているとぶつかってきても特に知らんぷり。

何かに必死なのはわかるがそれでは自分も息苦しくなるばかり。

そこには余裕がなければ愛もない。

いいのか東京。

そんなことではどんどん嫌になって病気になる人や電車から飛び降りる人が増えるし、もっともっと働きかた改革を進めていかないといかんですよ。

恐れからは愛は生じない

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恐怖から愛が生じるという人がいる。

愛のムチ、という表現だ。これは無知だと思う。シャレではないよ笑

愛のムチというが、わたしは一度舞台の上で女の子を叩かなくてはいけないシーンに遭遇した。本気で取り組んでいたから必死でやっていて周りが見えていなかったというのもあるけれど、本気でお尻を叩いたことがある。

もちろん舞台に真剣という意味では良かったが、舞台に愛があれば、その女の子がどう思うかも考えなければならなかった。

その女の子が痛いと思えば、確かに「痛い」を表現する舞台は成り立つけれど、役者の場合はしっかりと痛みを想像することで舞台が成立する。痛みを与えることが大切なのではなく、舞台を見ている人が痛い、と信じることが全てなんだと今思えば考えさせられる。

わたしがやったのは「痛い、怖い」と言う気持ちを彼女に植え付けてしまっただけだ。その後謝る機会があり彼女もわたしの真剣さを理解してくれていたが、やはりよくなかった。

しつけだってそうだ。

ビンタされて痛かったから今でもきちんとするというのがあるけれど、そういうのは結局どこかで反発する。

ビンタの痛みで学習していると、ビンタされたくないからしっかりやらなくなる。

痛みや恐怖で縛ることは愛ではないんだよね。

ビンタで「言うことを聞かせる」のではなく、愛しているならば理解して、方向性を指し示してやらないと。ビンタだって単なるビンタで愛が感じられないと逃げたくなるもの。

人間はそんなに強くない。

でも愛があればもっと強くなれる。

信じられていると言うことが自尊心を育むからだ。

条件や期待から生じた愛

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条件から愛が始まることがある。

身分、生地、職業、外見、お金などに魅力を感じて始まった愛だ。そうした愛は不安定でもろい。

なぜか。

条件はすぐ変わってしまうからだ。条件を愛する人に限って、条件が変わった途端に手のひらを返すように冷たい態度になる。それが条件から生じた愛。

実は条件で愛されたことがある。

今でも永遠の18歳などとのたまうくらいウブなわたしは、当時はさらにあまちゃんで全く気づかなかった。

総合商社マンという肩書きに惚れた彼女。

とあるひ相談があると呼び出し、「やめたい」と言った。

「総合商社を辞めるなんて、バカなの」とはさすがに言葉に出さなかったが、胸の中では「こいつアホか、人生舐めんな、F●CK」くらいは思っていたに違いない花形職業の彼女。

「やめたい」と相談したところ即座に別れなかったところはたぶん彼女のプライドだろうが、わたしがその先のことを色々考え苦しんでいる時になんの支えにもならなかった。むしろ彼女は別れる選択肢をちらつかせ、わたしをさらに悩ませた。

これは条件に惚れた愛だろう。

彼女からすれば「わたしを幸せにしてくれる」という願望のまま突き進んでいて、わたしの気持ちは全く無視であった。

高級取りの安定した会社に勤める王子様が、ベンツという名の白馬に乗ってきて、都心高層マンションというお城に連れて行ってくれて全てがハッピーになるだと?!

時代錯誤も甚だしい。中世じゃあるまいし。

わたしもできればシンデレラになりたいけど。

そんな甘い期待と言うか妄想を抱く女性がまだまだ日本には多すぎる。

ひょっとしたらわたしの周りだけかもしれないが、、、それだと日本はまだマシだ。

幸せはお互いで作っていくものであり、依存して吸い取るものではない。愛することで、返ってくるであろうなんらかのリターン(愛の収益)を求めている時点でその愛は難しい。

お互い期待するのはやめないか。そして同等に羽ばたこうじゃないか。

辛い時にこそ支え合うのが愛じゃないのか!!

と声を大にして言いたい。もう言ったので満足。彼女には言えなかったけど。

わたしが思う愛の形

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じゃあ愛ってなんなんだ。

これは古今東西ありとあらゆる人が考えてきた永遠のテーマである。だからこのブログを読んで全てが解決すると思ったら大間違いである。(とは言え読んでくれるとめちゃくちゃ嬉しいので読んで欲しいのだが、わたしはそう言う矛盾に満ちた21世紀を生きている。。。)

わたしにとって外せない要素がある。

書けば書くほど条件が多くなってしまったけれど、それもご愛嬌というか、全てを満たす必要はないと思うけれど2つや3つくらいあったほうがいいよね的な感じでお願いいたします。

1.互いに助け合えること

どんな境遇に陥っても、愛しているが故に助けることがある。

お互いを助け合えることができれば最高だ。

兄弟愛や親子の愛がこれに近いかもしれない。

家族でなくたって、仕事仲間だって重要なパートナーだ。

愛してさえいれば、意見の食い違いになることはあっても乗り越えられる。 

そう、さっきも言ったけれど、辛い時に支え合うって基本だと思う。

「糟糠之妻」という古い言葉があるのだけれど、これは別に他の性別にも言えると思っていて、苦しい時や辛い時にこそその人の本質が見えるし、それで支え合っているということは、愛の大切な要素と思っている(出典:糟糠之妻

貧し時分から苦労を共にしてきた妻。糠などを食べるような貧しい頃から共に苦労重ねてきた伴侶。「糟糠の妻は堂より下さず」という、漢の政治家宋弘故事成語由来する。

2.多少の変化こそあれ、信じ続けられること

そりゃ人間だもの、気持ちが変化することはある。

しかし、状況が変わろうが、信じ続けられると言うのが愛だ。

誠実さは大切で、言葉に責任を持ちたいと思うが、相手を信じ続けられなくなった途端に愛は終わってしまう。 

何があっても信じることができれば愛は続く。

3.見返りを求めないこと(求めるならば自分も与える)

見返りを求めないことマルとしたいけれど、そんなに見返りを求めない人だらけではない。だから注釈として、見返りを求めるのであれば自分から与える、と入れた。

そもそも自分から与えられない人は、友人としても家族としてもビミョーだけどね、と言うのは置いておいて。

見返りを求めない無償の愛、は実は誰しも持っている。

母親が子供に対するように、父親が子供に対するように、先輩が後輩に対するように慈しみ慰め、そして愛おしむこと。

そんな愛があれば最高だ。

4.美しさがあること

愛ってなんなんだ、と思っているとLGBTについて思い出した。

今やレインボーパレードが開催されたり、浜崎あゆみさんが自分の故郷だと新宿3丁目を引き合いに出したりと、何かと注目されるLGBT界隈。

そもそもLGBTとして名称までつけられているのが差別そのものだろ、と思うがそこは「分類」だからということでガマンするとしても、本来民主主義社会であれば、誰を愛そうが勝手だ。

隣の奥さんと愛しあうがあまり、海外に高飛びしてギャンブル三昧でも良いじゃないか(それで社会的制裁が来ることはわたしの範疇ではないが。。。)

そう、愛すれば、相手を思えば自らの身を投げ出せるようなものだ。

これが世間一般にとって美しいかどうかはさておき、わたしは美しいと思う。

相手のためであればなんでもできるって素敵。

もう一つ、憎しみを捨て愛することの美しさ

昔を振り返ればキング牧師マザーテレサも言っていれば、ガンジーも言っている。

ここではI have a dream(わたしには夢がある、)の演説で有名なキング牧師のLoving your Enemies(敵を愛せ、1957年)という名演説をご紹介したい。わたし独自の和訳とともにご紹介しよう。


Martin Luther King Jr. 'Love Your Enemies' November 17, 1957

好きっていうのは感情的なもの。愛情的な何か。

いろんな人がわたしに相談してくる、人を好きになるのは難しいと。

わたしはそういう相談を受けるのは嫌いだ。わたしについて噂されたり他の人の噂を聞くのも嫌いだ。

しかしイエスは言った。愛せよと。

愛は好き以上のものだ。愛するとは理解すること、人類にとって救済(キリスト教的ですが)である。だからあなたも愛せよ、神が人類を愛するように。 

少しキリスト教的発想も入っているが、キング牧師独自の解釈として、「敵を愛せよ」と言った名演説。もちろんキング牧師だって聖人ではないから、「好きでない」とか「嫌い」とか言っちゃっているあたりも面白い。

そして「敵を愛せよ」とはなんと美しいではないですか。彼がなんでここまでの思いで打ち明けたか。キング牧師には彼なりの人類愛があってそれが突き動かしたからに違いない。

キング牧師の時代は難しい時代で、いろんな差別に立ち向かわなければ行けなかったんだろう。だから敵を愛さないと行けない事情があった、でも今は現代だ。馬鹿馬鹿しい。

というかもしれない。

でも本当にそうか?現代だって差別はいくつもある。部落差別に身障者差別、ハンセン病への差別だって根強い、LGBTは取り上げられるだけマシなほうだ。それに現代ほど人と人との関係が重要な時代もないと思う。SNSが発展し簡単にビジネスをスタートでき、恋愛も簡単にできる時代。

逆に人と人の関係性が注目されてくるだろう。

そう、いつも時代も強い気持ちで人を動かすのって結局誰かを思う気持ち、愛なんだな。

あとがき的なまとめ 

人を愛することは素晴らしいことだ。そして愛し愛されることはより美しい。

世界をLove & Peace!!で繋ぎたい、って書こうと思ったら想像以上に筆が進んでめちゃくちゃ長くなってしまった。でも普段思っていることに勉強したことを追加してそしてアウトプットできたのでよかった。

何かの参考になれば嬉しいです!

サワディーカップ

ああのでした!

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